発達障害女子東田直樹さん「自閉症の僕が生きていく風景」自己肯定感について

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higashidanaoki2015

ビッグ・イシュー252号で紹介されている第41回「自閉症の僕が生きていく風景」を少しご紹介したいと思います。

 

発達障害をという個性があるかないか、というくくりじゃなく、作家としてみてほしいという東田さん。

 

このコラムは、精神科医山登敬之氏と東田直樹さんの往復書簡の対話編なのですが、毎回それぞれの方の人間の心のキモみたいなのが語られていてそれは素晴らしい。

 

今回のテーマは、「人は己か何者か、その判断を人にゆだねているのではないか」という内容です。

 

東田さんが、テレビに出ている自分の姿を見て、「愕然とした」とわがことながら「なぜ、あんな奇妙なことをするのだろう」と疑問に思ったとことについて、

 

山登氏は、(テレビに映る)自分を見て、奇妙なこととしては思わない、しかし頭の中で描いているイメージとは違って明らかにカッコ悪い。そして、「自分の抱く自己のイメージと実際のギャップにガッカリさせられることについては、それぞれたいした違いはないのではないか」と思うとのことなんですが…。

 

山登氏自身、テレビに映った自分の姿は見たくないにもかかわらず、ついオーケーしてしまう。画面の中にカッコ悪い自分を見たくない気持ちと、テレビに出て自己顕示欲を満たしたい気持ちがぶつかるからでしょうと、自身についてのべられています。

 

しかし、東田さんの答えは全然違うのです。

東田さんの言葉はこうです。

 

もしかしたら、山登先生と僕とは、恥ずかしさの種類が違っているのかもしれません。山登先生の恥ずかしさは、たとえば自分が想像していた姿ではなかったとか、そういうことではないでしょうか。

 

僕の場合は、自分の姿をした別人が、テレビに映っているような感覚なのです。びっくりして、世の中の人全員に「これは僕ではありません」と弁解したいような気分になりますが、それは不可能なので、受け入れざるをえないのです。

 

努力すれば直るとか、気にしなければいいといったたぐいのものとは違います。僕のような自閉症者だと、周りの人からは、テレビに出ても、人ごとのように感じていると、思われてしまうのかもしれません。

 

見かけだけでは、想像もできないような内面を持っている自閉症者も、たくさんいるはずです。それを理解してもらうのが難しいことを、僕もよくわかっています。

 

そんな当事者にできることが「あきらめる」でしょう。なぜなら、これが自分を傷つけない一番簡単な方法だと学んでいるからだと思います。

 

山登先生がおっしゃるように、自分を像(イメージ)としてしか、とらえることができないのは、本当に不思議ですね。結局、人は、己が何者か、その判断を人にゆだねているのではないでしょうか。

批判されたり、褒められたり、評価される中で、自分がどのような人間かに気づくのです。だからといって、周りにいる人が、何でもかんでも褒めればいいわけではありません。

特に障害者の教育では、褒めれば自己肯定感が高くなると信じられているようですが、そのようなことはないと考えています。

 

自己肯定感を高めるために褒めるのではなく、褒められた結果、自己肯定感が育つのです。褒める内容ではないことまで褒めていては、逆に子どもの心を傷つけたり、本人が勘違いしたまま大人になったりするのではないかと心配です。

 

以上が往復書簡の東田さんの書かれた内容です。

 

 

違和感を持ちながらも、褒める…?そんなことしたって白々しいものですね。でも、もしかして気づかぬうちに、何でもかんでも褒めりゃいいとやってしまっているかもしれない私です。

東田さんの言う、自己肯定感の捉え方は当事者の言葉としてしっかり受け止めなくてはと思う私です。

発達障害と自己肯定感、切っても切れない間柄…

 

今日も読んでいただきありがとうございました