発達障害母特徴「仕事大人になっても困難は続く」

Sponsoerd Links

 

娘の発達障害がわかってから、カンタンに私も発達障害のテストを受けてみてわかったのは、自分もそうだったということなんです。

 

どっかほっとしました。

そっかぁやっぱり~~。

それと同時に、わたしからの遺伝だったのかと…。

遺伝なんてしなくてよかったのに。

 

あたしと同じ道を歩くのか…

私がこれまで生きてきた年月、

実際これまでの数十年間これが本当に大変だったのです。

 

自分で整理できていることでの困難さは、

切り替えがうまくできない

計画をうまく立てられない

レポートが提出できない

簡単な計算以外できない

お金が計画的に使えない

物事に取り掛かるのに時間を要する

本音と建前がわからない

真意を汲み取れない(冗談などがわかりにくい)

何かを習得するのに非常に時間を要する

などです。(他にもいっぱいありますが…)

 

若い頃から言葉は悪いですが、人より劣っているな、何か欠けているなと思いつつ生きてきました。このへんは劣等感との長い長い付き合いです。

 

だからといって働かないと生きてはいけないですから、なんとか仕事はしてはきました。私の仕事の選択肢は、いたってカンタン!消去法です。

 

 

 

 

まずは、高校を卒業してから販売員になりました。6年ほど勤めてみて、向いてない!と思い辞めましたが、それからは職を転々として、自分の落ち着けるような職場には巡り会えませんでした。

いろんな仕事をしたんです。

新幹線の車内販売、セメント会社の事務員、電装会社の在庫管理などどれも長続きできませんでした。

 

そういるわけなので、販売、事務員、在庫を管理する仕事など消去法でこれはダメだ!向いてない!と思っています。というより、できなかったというほうが正しいかもしれない…。

そして数年後、数か月スキー場で働いた後、1994年12月に派遣の登録をしてみました。このころは、派遣という仕事は珍しくて、かっこいいイメージがありましたし、時給もよかったので、気軽に登録に行きました。仕事がすぐにもらえるとかもらえないとかもあまり考えもせず・・・でした。

 

年が明けて翌年1月の下旬を過ぎ、人材派遣会社から仕事の連絡がありました。翌年起こった阪神淡路大震災で急きょ外資系の保険会社へ、1月の下旬から仕事に就きました。一斉に30人もの女性がこの保険会社に派遣として入りました。

 

ここでの仕事がどうだったかというと、パソコンのブラインドタッチがなかなかうまくいかず、雇い主から叱られて嫌味を言われる連続でしたが、なぜか書庫管理だけはできるようになり、最終的に派遣の終了が私だけ6か月延長になり、ちょっと自信がついたのです。

 

その後は良い時代でもあり、仕事はいろいろな派遣会社から紹介がもらえるようになりました。中でも派遣として、一番長い間仕事を続けていたのが建設会社です。この時に人生でやっと仕事が楽しいと思えるようになりました。

 

そうはいっても、仕事に就いてから1年くらいはしんどい毎日でした。正社員の嫌味といじめにも似た罵倒に耐えて、そのころは複雑だった、「建設会社に特化した原価管理システム」というややこしい処理を月曜日に絶対にやらなければならない仕事があり、月曜日の朝は憂鬱でしかたない1年を過ごしました。

 

派遣という立場と、仕事のできない自分との闘いでなんとか踏ん張れて、2年目からいろいろな仕事を任せてくれるようになりましたが、この時わたし34歳…。

 

ということは、人より10余年くらいいろいろなことをこなすのに要したことになります。仕事をして、ある程度こなせば3年くらいで楽しさや辛さを覚え、生きる意味や厳しさを学ぶものだと思うのですが、これに私は10余年もの月日を要したことになります。

 

 

 

 

私は親の係わりや導いてくれる人がいなかったのもあり、こうした月日を費やしましたが、「発達障害を持つ子」の親としては、自分の経験が役に立つかもしれません。

 

親が適切に手を差し伸べ生きやすくなれば、私のように余計な思いを抱かなくて済むと思っています。

 

今日も読んでいただきありがとうございました